日本歯科矯正器材協議会

Orthodontic Suppliers Association of Japan

協議会の歩み

「矯正」という言葉が活字として登場するのは、1889年(明治22年)とされている。
「歯列矯正」、「歯列矯正術」などとして、当時の歯学書に記されている。 間もなく、専門学校の講義においても、「矯正歯科」という言葉が使われ始めた。その後、歯科矯正専門の学術書も相次いで発刊され、1914年には、文部省歯科病院(現・東京医科歯科大学)の補綴部の診療科目として「矯正科」が新設された。

1932年には、東京で第1回矯正歯科学大会が開催され、同時に商社展示も行われた。当時の記録によれば、側方拡大装置、矯正用ゴムリング、ループピンとチューブ装置、定圧送風器などの装置や器材に関する講演のほか、リボンアーチ、舌側矯正装置などのデモが行われた。出展社は5社であった。また、当時の歯科器材のカタログには、「アングル氏バンドフォーミングプライヤー」、「ヤング氏ワイヤーベンドプライヤー」、「バンド形成鉗子」、「リボンアーチ用鉗子」、「矯正ブローパイプ」、「結紮線」、「アンカーバンド」、「歯列矯正器」、「矯正器環帯材料」、「太口アーチ」、「細口アーチ」などの呼称で矯正器材が紹介されている。いずれも輸入品である。

この頃、アメリカの矯正事情を視察した高橋新次郎先生の記録によると、アングルの既製装置による治療の標準化が、アメリカにおける矯正臨床の一大飛躍をまき起こしたことに言及し、各メーカーが競って矯正材料の研究・改良につとめ、洋銀、真ちゅう、白金加金などをへて、初期には想像もつかなかったほどの素晴らしいステンレス・スチールを開発するに至ったと記されている。

矯正歯科学の発展とともに、矯正器材の輸入が徐々に広がりを見せ始めたが、この頃から日本を取り巻く国際情勢は日を追って厳しいものとなりつつあった。 特に、貴金属の輸入が思うようにできなくなり、代替品としてサンプラチナが登場する。当初、補綴関係の材料として使われていたが、その後、同金属を素材として、ロー線、前歯用・臼歯用バンドメタル、丸型チューブ、STロックが開発された。わが国初の矯正用材料の誕生である。

日中戦争から太平洋戦争へと戦線が拡大するにつれ、多くの企業は民需から軍需への転換を余儀なくされた。歯科産業界も例外ではなく、ようやく黎明期を迎えつつあった歯科矯正界も、不本意ながら、その歩を止めざるを得なかった。


敗戦を境に戦後の復興が始まった。敗戦の翌年1946年には、学校教育法が制定され、歯科専門学校が歯科大学へと昇格し、新しく、医師法、歯科医師法、歯科衛生士法が公布され、薬事法が成立した。戦争による空白期を取り戻すかのように、1950年代の後半から70年代にかけて、矯正治療の新しい考え方とテクニックが相次いで導入された。「ユニバーサル・アプライアンス」、「ツインワイヤーアーチ・アプライアンス」、「ベッグ法」、「ジャラバック法」、「エッジワイズ法」などである。これら、新しいテクニックの導入と並行して、矯正器材の輸入と国産化に拍車がかかることとなる。現在の矯正関連企業の多くは、期せずしてこの頃に活動を開始している。

1970年代にかけて、アメリカの規模の大きい矯正器材メーカーのほとんどが、我国のメーカー、あるいは商社と販売契約を締結し、本格的な輸入と販売活動が繰り広げられた。欧米の主要な矯正器材が輸入される一方、国産品の開発・製造も積極的に進められていった。 国産のバンドやブラケットが相次いで開発され、やがて国内市場はもとより、広く海外にも輸出されるところとなる。 以降、矯正界にも種々の動きがみられた。

1978年には、医療法の改正により、「矯正歯科」、「小児歯科」の診療科名の標榜が認可された。また、1970年前後から、主として外国人講師による歯科矯正に関するセミナーや講演会が頻繁に開催された。欧米の著名な矯正家はいずれもこの頃に来日している。多彩なテクニックの導入、矯正歯科学、矯正臨床の飛躍的な発展とともに、1970年代後半から80年代にかけて、矯正器材業界にも新規企業の参入が相次いだ。


この頃、一部企業の担当者の間で、矯正器材業界における同業者団体結成の必要性が話題となり始めた。当時、すでに歯科産業界においては各種の団体が存在し、それぞれ活発な活動を展開していた。日本歯科商工協会、日本歯科用品卸商業組合、日本歯科器械工業協同組合、日本歯科材料工業協同組合、日本歯科用品輸入協会、日本歯材同友会、日本歯科企業協議会などである。

1980年の日本矯正歯科学会福岡大会において、業界団体結成の構想が関係各社に提案された。関係者によれば、概要、次のような主旨説明がなされたとのことである。

『業界全体の体質強化のためにも、また、日本矯正歯科学会からの窓口設置の要請に応えるためにも、そろそろ何らかの情報交換の場をもつ必要がある。』

団体の仮称は「矯正器材懇談会」とされ、学会終了直後に懇談会設立に向けた会合の開催通知が、日本矯正歯科学会の賛助会員各社に送付された。 当時の日本矯正歯科学会の賛助会員は、24社であった。同じ年の12月に、矯正器材懇談会の初めての会合が東京で開催された。 懇談会は、運営委員会が適宜協議し、全員にはかって会の意思を集約する方法が採られたが、当面の業務は日本矯正歯科学会や各地区学会における商社展示に関する会員相互の意見調整と主催者との折衝であった。以後、日本矯正歯科学会の商社展示に関する協議は、矯正器材懇談会として学会側と一括折衝することとなった。

懇談会の発足前後から平成の初めにかけて、歯科矯正界を取り巻く状況に、新たな変化が生じた。 標榜制度の実施、唇顎口蓋裂、外科矯正の保険導入、認定医制度や生涯研修制度などの諸制度の発足に加えて、矯正治療を提供する歯科医師、診療所の増加、国民の矯正治療に対する理解の広がりなどである。また、日本咀嚼学会、日本審美歯科学会、顎変形症学会、日本接着歯学会などの関連学会が次々と設立され、歯科矯正は名実共に包括的歯科医療の一翼を担う重要な分野として、隣接分野から大きな期待と関心が寄せられることとなる。


このような変化に即応すべく、1990年~91年にかけて、歯科矯正界の中での矯正器材懇談会の位置づけを一層明確にするため、会の目的や会員資格の整備など、会の在り方を再考する気運が高まってきた。1991年、新年の例会において、会則の見直しと業界発展のための施策等、再出発に向けての準備作業のための連絡会が設けられ、同年4月、13社の参加を得て、「日本歯科矯正器材協議会」(英語名=Orthodontic Suppliers Association of Japan)の名称のもとに、新しい組織が発足した。会長はじめ、役員の任期は2年である。協議会発足のこの年、第50回日本矯正歯科学会記念大会と併せて、第1回アジア太平洋矯正歯科学会議が大阪で開催された。商社展示も40数社に上り、新しい試みとしてコンピュータ関連製品の専用展示場が設けられた。

1995年、サンフランシスコで開催されたアメリカ矯正歯科学会の会期中に、当地のANAホテルで協議会主催のカクテルパーティ「NIKKEI Invitational Cocktail Party」を実施した。 アメリカで活躍する日系の矯正医と日本の矯正医との懇親を目的としたパーティの参加者数は200名を越え、協議会の名を知らしめる絶好の機会となった。協議会発足後、会員社は3社増え、合計16社となった。1997年、役員改選が行われ、矯正界における協議会の認知という初期の目的を達成したあとの目標として、四つの項目が掲げられた。

  1. 患者啓発
  2. 学術大会におけるイニシアティブをもった商社展示
  3. 会則を常に、時代に即したものに改正していく
  4. 薬事他、法律上の問題の確認

アメリカ矯正歯科学会(AAO)と業界組織であるOMA(Orthodontic Manufacturers Association)の協力体制をモデルとして設定された活動目標であるが、特に1,2項目は重点課題とされ、新しい目標に向けての活動を積極的に推進していくために、各種の委員会が順次設置された。学術大会準備委員会、会則検討委員会、社会医療検討委員会などである。第56回日本矯正歯科学会から、商社展示の計画段階に協議会の準備委員が参加することとなり、翌年の仙台大会からは、商社展示の準備、運営、会計の一切が協議会に委託されることとなった。日本臨床矯正歯科医会大会における商社展示も、準備と運営は協議会が主体的に担当するようになった。会則検討委員会は、1998年に、「本会の目的」の条文を見直すとともに、翌年には、「正会員」と「準会員」の区別、「役員と会務の分掌」などについての条項を改めた。薬事承認、公正取引規約、ホームページに関する情報の収集と会員相互の意見交換を目的に設置された社会医療検討委員会は、公正取引問題についての講演会を実施した。

2001年、協議会発足後、4回目の役員改選が行われた。前執行部からの懸案事項であった日本歯科矯正器材協議会20周年記念誌「矯正歯科業界の歩み」を発刊し、会員社(18社)並びに各大学、矯正専門医等関係団体、関係者に広く配布した。同年東京で開催された第60回日本矯正歯科学会の記念大会では、学会と協議会との共同企画で、「矯正歯科と医療経営環境」と題するパネルディスカッションを開催し、多くの方の参加を得た。

激変する経済環境の中、より良い医療サービスを患者さんに提供するる為には、医療従事者だけではなく、医療現場に器材を供給する器材協議会も患者啓発を行うべきであると云う流れの中で、協議会の広報委員会の長年の努力が日本矯正歯科学会製作の患者啓発ポスター等で具体化された。2002年、第61回日本矯正歯科学会・名古屋大会でも、協議会独自の小間を設置し、参加者に患者啓発のアピールを行った。

現在は、会員社は26社となり、患者啓発、学術大会における商社展示、薬事法等の規則遵守等の活動を続けている。

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